梅雨の影響で、このところ曇りの日がつづいている。湿気を帯びた風が肌に張りつく。仕事が一区切りついて急に暇になってしまったことも相まって、なんだか気分が重たい。今日は有給休暇を消化して休みにしたけれど、明日仕事かと思うと嘆きたくなる。

 いつの頃からか、同僚の愚痴を聞く機会が増えた。うちの職場は人数が多いから、どうしてもいろいろ摩擦が起こってギクシャクしがちなのだ。彼女らにとって僕は話しやすい相手なのか、胸に溜まった話をあれこれと吐き出してくれる。僕はただ相槌をうち、ときどき向こうの言葉を反芻する。聞くことだけが僕に与えられた役割なのだ。

 人の話を聞くというのは、案外難しい仕事だ。例えばAとBが揉めたとき、僕はそれぞれの声に寄り添い、味方のふりをしなければならない。僕の中でAとBの意見がカフェオレのように混ざり合う。そして何より大事なのは、僕自身の意見は不必要だということだ。相手はただ聞いてほしいから僕に語りかけているのであって、なにかアドバイスを求めているわけではない。さあ、僕は僕の声を海の底に沈めていく。

 このようにして、誰かの不満や文句を自分のものとして受け容れていくことには限界があって、ときどき疲弊する。自分の心が静かに腐っていくような虚しさを覚える(もし心だけを取り出せるなら、今どんな感じか見てみたい)。このところ僕は、カウンセラーの仕事をしている人たちのことを想像してみて、大変だなあと勝手に同情している。というか、自分はなんて優しい人間なのだろうと自負せざるを得ない。

 ここで働きはじめて、数年が経つ。気づけば、同僚に仕事を指示するような立場になっていた。同じ職場にいても人によって見え方は異なってくるから、正直なところ、彼女らの語りは僕が見落としていた気づきを与えてくれる。職場での人間関係で配慮すべき点がわかり、誰をケアすべきかが見えてくる。みんなはそれほど柔ではないとわかっているけれど、心が崩れないように、傷んでしまわないようにと、相手の話に耳を傾ける。それは桃の果実を採るような、微妙に繊細な作業だ。

 そして僕は、この文章をしたためて、顔の見えない読み手に相槌を求める。もう夜も深い。すぐそばで、大して面白くもない仕事が満面の笑みで待ち構えている(また誰かが愚痴をこぼすだろう)。本当はあなたと冷えたビールで乾杯してカラオケにでも行きたいところだけど、今日のところは眠ることにする。さようなら。

どんな方法で

 仕事がおわってから恋人と合流して、付き合い始めて一年になる今日を祝った。タリーズコーヒーでお茶をしようと、テラスでのんびりしていたら耳元で虫の羽音がきこえた。蚊だ。途端に体も意識もそわそわし始める。二人とも飲み終わったので、散歩でもしようかと立ち上がり、お店を離れる。

 その日、僕は仕事のことで人に謝った。このことはやや込み入った話になるから、説明するのがなんとも難しい。とにかく僕は同僚に謝罪した。まず、その人に関するよくない話が複数人からあがってきて、それを聞いた僕は、その同僚に話を聞く前に注意をした。しかし僕が口下手であるばっかりに、違う伝わり方をしてしまい、僕は僕でそれをどう訂正してよいものか分からず、ぎこちない感じになってしまった。

 それ以降、お風呂場や布団の中で幾晩も悩んだ。いや、私は悪くないはず、でも、別に言わなくてもよかったしあの人と気まずい感じなのはしんどいし、なぜあのときああ言ってしまったのだろう…。胸に鬱が吹き溜まる。

 働かせてもらうようになってもう二年近く経つけれど、友人とも家族とも違う人たちとどのように付き合っていくべきなのか、初めての経験にいまだに戸惑いつづけている。ときどき感じるのは、「自分の感情や思考を自分で上手に操っていかなければ」というプレッシャーだ。ふと言いたくなった言葉を唾と一緒に飲みこんだり、言葉をどう組み立てていけばカドが立たないのか考えたりと、いろいろ工夫が求められる(みんなどうやってうまいことやってんの?)。それは終わりの見えないトライアンドエラーで、雨雲のグレーの濃淡のなかを潜り続けているようだ。うまくいってると思えばすぐに挫ける。失敗からちょっとだけ学びを得る。今のところ、そうやって生き延びるしかないと思っている。

 いつもは夜に散歩する川辺も、まだ明るいうちに歩いてみると、知らない町の景色を見ているようだ。川べりのほうは水が澄んでいて、魚群のきらきらも目に映る。そこをエイがたゆたいながら横切っていく。僕が謝ったと聞いて、恋人は「あなたは悪くないじゃない」と言った。まあそうかもしれないけど、それでもいいんだよと僕はごにょごにょ口籠った。正直、悪いとか悪くないとかはわからない。でも今は、胸のあたりがすっきりして心地がいい。机の上の荷物をまとめて整頓したような清々しさがある。駄弁りながら歩いていたら、ゆっくりと日が傾き、解散する時刻に差しかかった。恋人を乗せたバスが走り出すのを見送り、僕も家路をめざした。翳りゆく空のむこうから、少しだけ眩しい光が射していた。

雑感の銀河

 職場を出ると夜の帳は下りていた。左膝の痛みを庇いながら歩きはじめる。ウィンドブレーカーのポケットから取り出したイヤホンを耳の穴に嵌めこんで、音楽を再生する。家から職場までの距離はだいたい2キロぐらい。自転車やバスを選べばいいのに、やや長い道のりを歩いて帰る。

 こんなふうになったのは、つい最近のことだ。自転車で帰宅していたところ、道を右折しようとするタイミングで(恥ずかしいことに)滑って転倒してしまい、右腕や顎に擦り傷ができ、左膝を打撲した。ふつうに歩く分には問題ないが、階段の上り下りやしゃがむ動作が難しくて、その度に骨を貫くような痛みが走る。自転車に乗ることができなくなった僕は、いろいろあった結果、徒歩で通勤するようになった。

 今は正直、歩くことを好んでいる。自転車で移動していたときは、なぜかいつも焦って急いでいた。駆り立てられるように速度に身を任せていた(だから単独事故なんか起こった)。行き帰りが歩きになるとどうしても時間はかかるけれど、その間、ぼんやりなにかを考えたり好きな音楽に夢中になったりすることができる。仕事やその諸々で一日が塗りつぶされそうな日々の中で、思考を好きに泳がすことができる時間は有り難かった。

 歩きながら、遠くのマンションを見やる。それぞれの部屋の明かりが夜に浮かんでおり、その色が青白かったり蜜柑色だったりして異なっているのが妙に好きだ。そういえば、今日は残業がなければ本屋に行こうと思っていたけれど、あそこは午後7時に閉まってしまうからいつも機会を逃す。ショッピングモールの中にある関係で営業時間が短いのは承知しているけれど、もう少し遅くまでやってくれたら嬉しいのにな。

 信号待ちで立ち止まる。流れていくテールランプの赤色や、街灯に濡れている街路樹の薄緑色、そして町の隅々にまで伸びている夜の色、それらにふと見惚れ、影絵のようだと思うけれど、信号が青に変わってすぐにまた歩き出す。少し先の方に、風に揺れる旗のもとで手を振る誰かの姿が見える。市議会議員の候補者だ。演説をしているわけではなく、ただ挨拶を繰り返している。そのまままっすぐ歩いていけばいいのに、その声を避けるように迂回する。やっとマンションに着いたので、階段を上る。やはり手すりがないとかなり厳しい。ここまでずっと僕のそばにいてくれたバンプオブチキンの「ギルド」を、ちょうどいいところで止めて部屋の扉を開ける。疲労感が心地いいけれど、毎日これを続けることはできないな。たまにはバスで行こう。

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わかりあえない

 春の曖昧な気温のせいで、頭が痛い。ゆっくりお風呂に浸かったあと、布団にくるまりながら文章を考えている。明日も働かなくちゃいけないけれど、なるべく仕事のことは意識しないようにしている。午後からは、恋人に会う。何を着て行こう。今はとりあえずそのことを。

 夜に散歩するのが楽しい。夜の町はひと気がなくて、ときどき自動車の走る音が横切るだけだ。路地裏や川べり、ほの明るい国道沿いを、恋人と雑談しながら歩く。大事な話をするときもあるけれど、そのほとんどがくだらないもので、今もあんまり思い出せない。なんでもないことを話せることが嬉しいのだ。

 喋っていると、なにかのきっかけで相手から叱られることがある。それは僕の態度や言葉が原因なのだけど、ときどき、どうしてそこまで怒っているのかわからないときがある。嫌らしい意味で言っているわけではなく、ただ素直に、相手にとっての機嫌の「ツボ」が自分とは違うのだと感じる。だからその反対で、こちらの予想を上回るほど、相手が喜ぶこともある。

 昔は、人の心がわからないことがつらかった。自分のせいで相手が傷つき、その人との関係がぎこちなくなるのが苦しくて、一人でいる方が楽に思っていた。しかし、そもそも人の心はわかるものなのだろうか。「わかっている」と思い込んでいるだけではないのか。人の心はわからないものだ。そう諦めてしまえば、今までのしんどさが多少和らいだ。人間関係というのは、ハンドルが壊れた自動車と同じで、こちらの思い通りにはならないけれど、できることなら、そのオンボロな車が導く旅を楽しみたい。

 どうやら、文章を考えている途中でうとうとしていたようだ。ラインに恋人からのメッセージがきていた。いま返信すると向こうの眠りに水を差してしまうから、そっとしておく。僕は恋人の心が(たぶん)わからない。だからと言って、接し方や言葉遣いがでたらめで構わないというわけではない。僕は自分の優しさを信じている。日々のやり取りで重ねる言葉から、僕は相手の心の輪郭を描こうとする。ときどき、消しゴムで消して修正するときもあるけれど、僕はできるだけ恋人の心を理解したい。わからないけど、わかりたい。それは矛盾しているように思えるけれど、僕はそのまま心の中に仕舞っている。さて、明日の仕事のことをそろそろ考えないといけなくなった。また目を閉じて、眠ろうと思う。f:id:sawatte_kawatte:20230409225400j:image

肝腎

 今日は、仕事が終わってすぐに、職場近くの耳鼻科へ向かった。二月半ばからつづく鼻水・鼻づまりに嫌気がさしたからだ。処方薬をもらって薬局を出ると時間は6時半をすぎており、遠くの方の空は翳りつつあった。ただそれでも、やはり夜の訪れは日ごと短くなっていて、長袖シャツ一枚で帰る軽やかさで自転車をこいだ。

 このごろ、健康についてたびたび考える。仕事の方が忙しくなり始めているせいかもしれない。例えば、休日出勤などで自分が体調を崩すと周りに迷惑をかけてしまうから健康に気を遣おうと思う。それは静かなプレッシャーになり、夜の寝床にふかく沈む。だれかに言われたわけじゃないのに、なんとなく、風邪をひいてはいけないような気がしてしまう(別に同僚が休んでも恨んだりしないのに)。思い込みがすぎているのだろうか。

 話はやや逸れるけれど、近所にあるデパートの駐輪場について書きたい。以前までは、駐輪場の料金は出口に座っている係員の人に払うようになっていた。それが最近、発券機が導入され、料金の支払いも精算機にお金を入れる仕組みに変更された。つまり、係員の人がいなくなったのだ。僕はときどき、あのおじいちゃんは今頃どうしてるのだろうかと想像する。特に喋った記憶もないのに、彼らにさびしさを覚え、勝手に可哀想な気持ちになっている。

 人よりも機械の方が便利なのだろう。機械は人間関係で揉めることがないし、労働法も関係ない。体調を崩して休む人が出た際に、代わりの人を用意する必要がない。でも、僕はそのあたりの、人間の揺れやすさというか、風邪をひいたり身内が亡くなってお葬式に出なきゃいけなかったりするような、生きててどうしようもない側面に目をつむろうとしている感じがすごく切ない。

 そうは言っても、僕は健やかでいられるように努めるだろう。人造人間のようになれたらと思う。非常勤職員はとにかく健康でいさえすればいいから。でも、流行病にかかってしまったり、お子さんが体調不良で保育園から電話がかかってきたりするものだ。僕もときどき、張り詰めていた線がふっと切れるように、扁桃腺が腫れて発熱に苦しむ(有給休暇が減る)。体調管理というのは、本当に可能なのだろうか。病院だけじゃない、気分の方もそうだ。自分のものなのに、なかなか掴めない。たまには、元気なのに一日休みにして県外まで旅行したいものだ。新幹線の流れる景色、駅弁を口にしながら…。

さらさら

 ある日、窓口に来た女性が、自分は軽度の認知症を患っていると言った。僕は平静を装いながら「どうぞ席にお掛けください」と促したが、正直なところ、唐突すぎてどう反応すればいいのかわからなかった。

 認知症の患者さんに関わることがなかったため、あくまで通常どおり、手続きの言葉を並べていく。最初は問題なかった。ある話の流れから、女性が昔保護していた犬の話になり、彼女は丁寧にその犬のことを話し始めた。こちらはふうんと感心して聞いていたのだけど、彼女がその話を終えた途端、「手続きはおわりましたか?」と尋ねてきたので、ああなるほどと思った。まだ手続きは完了していない。まだですよ、と答えたが、それからまた少しして同じやりとりがあった。手続きが終わり、別の窓口へと案内する途中、彼女は何度も「ここは〇〇役所ですか?」と僕に訊いた。その度、初めて聞かれたように「ええそうですよ」と答えた。次の窓口の職員にも、ここが本当に役所であるのか確認をしていたが、僕は窓口に戻らなければならなかったため、彼女から離れることにした。

 記憶という砂粒が、さらさらと流れていくのを見るようだった。積み上がっても、またすぐに風に遊ばれてしまう。記憶はこれほど曖昧で頼りないものなのかと、「怖い」という感情さえ抱いた。でも、自分にも覚えがある。急に人の名前が出てこなくなったり、自分が何をしようとしていたのか思い出せなくなったり、頭に急に暗闇が降りてくるような、そういう経験が何度もある。僕の記憶が水瓶ならば、年を経るごとに少しずつ欠けていき、こぼれていく水も多くなるのだろう。ついにはそのことにも気づかなくなるぐらいに。

 記憶の問題とはまた別になるのかもしれないけれど、忘れるということについて話したい。ある夜、僕は恋人と会っていて、だらだらと話をしていた。なにかの話の流れで、相手が「あのときあなたからこういうことを言われたけど、本当はつらかった」と僕に打ち明けた。僕は、忘れていた記憶を思い出した。言った。たしかに言った。でも、その言葉の加害性について考えが至る間も無く、僕はいままで忘れていた。僕は謝罪に似合う言葉を繰り返したけれど、もう遅いことはわかっていた。僕と恋人との間に、きっといくつも、記憶の溝があるのだろうと思った。僕が忘れたけれど、相手が覚えていること。僕はまだ気にしてるけど、相手にとってはもうどうでもいいこと。傷つけるという意図や自覚がない言葉は、安心して忘れてしまうけれど、傷つけられた方はその痛みと生きている。人はときどき、僕の記憶の暗がりを照らしてくれるが、そこには僕の優しさも、いやらしさも、ふがいなさもある。僕は今、何を忘れているのだろうか。

湯気のように

 梅の花が咲いていた。真白い色の粒つぶが、誰よりも早めに春の気配を教えてくれる。公園へと向かう道すがら、車の窓のすきまから漏れてくる風は、いつもより柔らかいような気がした。ふいに指を風の方へ差し出してみる。いつも季節の方から先に新しくなっていく。

 運転席の恋人が、おなかが空いたとつぶやく。それなのに車は公園をめざして山道を進む。僕がこの人と付き合いはじめて、そろそろ一年が経とうとしている。その実感らしいものはさしてないけれど、波乱や言い争いもないので、気持ちのいい温度で幸せを感じている。

 ときどき恋人と、結婚について話をする。結婚…。僕は正直それほど興味がないし、自分にその権利があることにもピンとこない。あるとき恋人が、「結婚しないのなら今までの時間はなんだったんだろうって思う」と言った。そうだよなあと返事をする自分と、そうなんだろうかと考え込む自分がいた。向こうの期待を裏切るほど結婚に対して拒否感があるわけでもないけれど、結婚というのはやたらぼんやりしているのだ。

 公園の駐車場には、すでに何台か車が止まっていた。日曜ということもあって子供連れが多かった。屹立する木立をぬけると、海がみえた。そこで僕たちは、胴体だけのカニやウニっぽいトゲトゲ、素早く逃げるクモを見つけた。波打ち際の、やや険しい砂利道を歩いていると、すぐそばに死がいるような気がして、つないでいる恋人の手をこっそり頼りにした。

 これまで、何人かと友達になり、ときには恋人になったけれど、その関係を長く保たせることは難しかった。ふとしたタイミングで結び目はほどけた。仲の良かった人が離れていくのはつらいことだけれど、相手と別れることができるのは、実はいいことなのではないかと最近思う。嫌気がさしたりどうでもよくなったりすれば相手はいつでも僕から離れられる、でも今のところはうまいこといっている。ひねくれた考えかもしれないが、人付き合いにひそむ不安感から、僕はときどき有り難さを受け取る。結婚したら安心するだろうか。わからない。新しい嫌な自分が顔を出しそうで心が曇る。

 公園を去り、また山道をくだる。恋人はときどき助手席に座る僕を皮肉るけれど、僕は、楽な姿勢で窓の外の景色をみたりくだらない話をしたりするのが好きだ。人と付き合っていくことの心もとなさに怯えながら、そばにいてくれることの大きさを感じる。気づかれないように僕は運転手の横顔を眺めていた。