湯気のように

 梅の花が咲いていた。真白い色の粒つぶが、誰よりも早めに春の気配を教えてくれる。公園へと向かう道すがら、車の窓のすきまから漏れてくる風は、いつもより柔らかいような気がした。ふいに指を風の方へ差し出してみる。いつも季節の方から先に新しくなっていく。

 運転席の恋人が、おなかが空いたとつぶやく。それなのに車は公園をめざして山道を進む。僕がこの人と付き合いはじめて、そろそろ一年が経とうとしている。その実感らしいものはさしてないけれど、波乱や言い争いもないので、気持ちのいい温度で幸せを感じている。

 ときどき恋人と、結婚について話をする。結婚…。僕は正直それほど興味がないし、自分にその権利があることにもピンとこない。あるとき恋人が、「結婚しないのなら今までの時間はなんだったんだろうって思う」と言った。そうだよなあと返事をする自分と、そうなんだろうかと考え込む自分がいた。向こうの期待を裏切るほど結婚に対して拒否感があるわけでもないけれど、結婚というのはやたらぼんやりしているのだ。

 公園の駐車場には、すでに何台か車が止まっていた。日曜ということもあって子供連れが多かった。屹立する木立をぬけると、海がみえた。そこで僕たちは、胴体だけのカニやウニっぽいトゲトゲ、素早く逃げるクモを見つけた。波打ち際の、やや険しい砂利道を歩いていると、すぐそばに死がいるような気がして、つないでいる恋人の手をこっそり頼りにした。

 これまで、何人かと友達になり、ときには恋人になったけれど、その関係を長く保たせることは難しかった。ふとしたタイミングで結び目はほどけた。仲の良かった人が離れていくのはつらいことだけれど、相手と別れることができるのは、実はいいことなのではないかと最近思う。嫌気がさしたりどうでもよくなったりすれば相手はいつでも僕から離れられる、でも今のところはうまいこといっている。ひねくれた考えかもしれないが、人付き合いにひそむ不安感から、僕はときどき有り難さを受け取る。結婚したら安心するだろうか。わからない。新しい嫌な自分が顔を出しそうで心が曇る。

 公園を去り、また山道をくだる。恋人はときどき助手席に座る僕を皮肉るけれど、僕は、楽な姿勢で窓の外の景色をみたりくだらない話をしたりするのが好きだ。人と付き合っていくことの心もとなさに怯えながら、そばにいてくれることの大きさを感じる。気づかれないように僕は運転手の横顔を眺めていた。