ほとんど一年ほど、友達にどう連絡をとればよいものかと考えあぐねいている。最後に話してから今までの間にさまざまなことが起こったように思うが、季節の速さに記憶が間に合わないので、うまく思い出せない。

 彼らとはインターネットを通して出会ったので、あちらが近況をつぶやいてくれればそれでなんとなく察することはできる。あるいは、なんらかの投稿に反応を示すことで、彼らとのゆるやかな交流が継続される(かなり回りくどい方法だけど)。

 ただ、彼らの投稿を目にするたびに、前はもっと頻繁にやり取りしていたのにな、と思ってしまう。難しい話だ。僕も友人も学生だった頃には、話すための時間を用意することは易しかったし、同じモラトリアムを共有していたので話もしやすかった。他者と話しているのに自分自身と対話しているような楽しさがあった。今はどうだろう。僕も友だちも、だんだん変わっていった。もし会って話した時に、一つも楽しくなかったらどうしよう。あちらが僕のことを嫌ったら泣いてしまう。友だちが僕に自己啓発本をすすめてきたとしたら。そういう嫌な予感が頭に充満して、ただ投稿を眺めるだけの人になってしまう。

 学生の頃の自分は、ずうっとさみしかった。さみしいから文章を書き、ツイッターに棲みつき、何度も電話をかけた。顔も知らない友達と言葉を交わすことで、生き延びられるような気がした。僕は比喩を使うのが大好きなのでここでもそれを持ち出すが、友達とのやり取りは、広い海を泳いでいくためのパドルだった。

 もしかしたら今は、別のパドルで水を切っているかもしれない。家族や恋人、一緒に仕事をしている人。前よりもさみしさを覚えなくなったのは、実家で暮らしている安心感のおかげなのか、仕事で疲れてまともに頭が働いていないせいなのか、僕にはわからない。しかしながら、新しいパドルで海を漕いでいるときにふと、懐かしい感触を想うことがある。昔の会話を漁る。あれほど不器用に人付き合いをしていた自分を受け止めてくれた、彼らの優しさを反芻する。

 ただ、声が聞きたいと言えばそれで済むことなのだが、どうにも伝える勇気がない。言い出せないことは、言わなければならないことなのだけど。僕はこの文章を静かに置いていく。誰にも見つからないとしても、一向に構わない。