目尻

 齢をとるというのは、どういうことなのだろう。別段、長生きしたいわけではないけれど、予め考えておいて損はないような気がする。アリたちも、冬の季節に備えて夏の日も働いているわけだし。

 人によってさまざまだと思うけれど、年齢を重ねることを否定的に見ている人は多いように感じる。「おじさん」や「おばさん」といった表現を自虐的に使う人や、実年齢よりも若く見られることを目的とした広告をみるたびに、これから僕の人生は下降線を描くことになるのだろうか、と不安になる。それは見方を変えれば、若さへの戸惑いでもある。若いというのは、そんなにいいことなのだろうか。いまの僕にはわからない。

 ただ、僕もときどきこわくなるのは、「おじさん」になって自ずから権力をもってしまわないか、ということだ。視線を向けたり咳払いをしたり、あるいはただ近くにいるだけで、相手に何かしらの緊張感を与えてしまうのではないか。いやだなあ。自分の振る舞いや言葉遣いのすみずみに、力が宿るのならば、僕はずっと弱くありたいと思う。いや、ずいぶん曖昧なことを言ってしまった。弱くあるためには、学ばなければならない。自分が無意識に踏みつけているものを知るために、他者の声に耳をすまさなければならない。そういうことで誰かを萎縮させずに済むなら、易しいことだ。

 ここで話は変わってしまうけれど、仕事をしていて、面白いと感じることがある。窓口に来たお客さんで、お年を召した方々がしばしば、「もうその頃には死んどるわ〜」とおっしゃるのだ。「その頃」というのはだいたい十年後のことなのだけど、ここまでまっすぐに自分の死をネタにされると、こちらは微笑みながら否定するしかない。でも、ふとそれが羨ましく思えるときがあって、自分もいつか死を笑いにして、相手を困らせたい。そのネタを披露できるまで、死はじっと懐で温めておこうと思う。

 この頃、帰り道の信号待ちにぼんやり考えるのが、目尻のあたりに皺がほしいということだ。皺というのは、折り紙をしたあとの折り目のようなもので、一人ひとりの表情をうつしている(たぶん)。だから、目尻に皺がある人をみると、「この人はよく笑う人なのかなあ」と勝手に想像して羨ましいと思う。ときどき、他者と関わることが億劫に感じてしまうけれど、大切な人とのお喋りやふれあいをおざなりにはしたくない。ユーモアをもって、相手を思いやりたい。そうやって笑いを重ねていき、目尻に皺を刻みたい。