入相

 家まで帰る時間が一日の中で一番好きかもしれない。自転車をこぎながら、固まっていた熱がほどけていくのを感じる。肩のあたりから風になっていくように思える。別にもう愛想笑いは必要ないし、社交辞令も求められない。同僚と鉢合わせするのを避けて、遠回りしながら帰る。夜の公園を通ってみる。広い公園なので、犬を散歩させている人もベンチに寝転ぶ老人も、線香花火をする高校生もいる。そういう営みに視線を送るのが楽しい。

 学生時代、学校からの帰り道も好きだった。夕日が川面を染めるのがきれいだと思った。橋を渡り、ゆっくりと下降する。そのときの空気の膨らみを思い出す。別に大したことは考えていなかったはずだけど、自転車をこきながら頭の中で想像を組み立てた。その頃は歌詞を考えるのが趣味だったので、メロディと言葉を探していた。

 話は逸れてしまうけれど、仕事をしていて不思議に思うことがある。僕は昔から吃音をもっていて、窓口で緊張してしまうとよく言葉が引っかかり、うまく出てこなくなる。発音がつまずくと身体の内側が熱くなり、相手の反応が気になる(笑われたらどうしようかと思う)。ただ、誰かの代わりで窓口に入ったときには、不思議と吃音が出ない。自分がもともと任されていなかった仕事をするとき、いつも以上に心が軽いので、緊張感も多少やわらぐのだろう。言葉を発するときの滑らかさが違うことに気づく。

 そういえば、家に帰るまでの間、僕は何者でもない。家の構成員でもなければ、非正規職員でもない。誰かの友人でも、恋人でもない。いろんな関係から切り離されて、ひとりになる。その気楽さが心地いいのかもしれない。家や職場、学校などで人と関わるとき、他者のために言葉を使うことがある。他者のための質問、相槌、返答、感想。別に僕の言葉である必要はなく、その環境のコードに適した言葉でありさえすればいい。でも、そのようにして他者のために言葉を選び取っているばかりいると、疲弊し、うんざりしてしまう。帰り道、僕は誰のためでもなく言葉を摘みとり、味わう。

 あとはもう、今日という日を折りたたみ、眠らせるだけだ。重たい体を布団の中に潜らせる。またすぐに朝が来るだろう。さまざまな役割を思い出し、東へ向かう私になる。