あとは寝るだけ

 仕事がここ最近忙しい。窓口対応に明け暮れて、終業後も外が暗くなるまで残業する。疲れは翌日に持ち越され、曜日の感覚がだんだん怪しくなってくる。なんのために仕事してるんだっけ…?残業代がつくだけ有難いと思うし、もはやそれだけを頼りに体を動かしている。

 寝る前に本を読むことにしているけれど、あまり進まない。そのうち別の本に興味が移って、どの本もおざなりなまま積み重なっている。しかしながら、ほんの短い時間でも、本の世界に触れることによって窮屈な現実からやや離れることができる。

 いま読んでいるのは、中森弘樹さんの『「死にたい」とつぶやくー座間9人殺害事件と親密圏の社会学』という本だ。座間9人殺害事件というのは、当時27歳の男がSNSで「死にたい」とつぶやいている男女に声をかけ、自分のアパートに招いて殺害した2017年の事件である。筆者はこの事件から、なぜSNSには「死にたい」があふれているのか、社会学の視点から考察している(まだ読了できていないが、たぶんそうだ)。

 僕も「死にたい」とSNSに投稿したことがある。家族に打ち明けることはできないだろうけど、知らない人たちの前ではするりと口に出せる。希死念慮というのは、それを感じたことがない人にはなかなか理解されないものだ。だからこそ、インターネット上で知り合った友達と通話で「しにたい〜」と言い合えたとき、妙な喜びを覚えた。それまでの対人関係で「死」が媒体になることはなかったけれど、自分にとって「死」はとても身近な話題だったから、それを分かち合えるのはとても稀有なことだと思った。

 話は逸れてしまうが、誰かが電車に飛び込んで自死するたびに、彼らに対して投げかけられる批判の声が痛い。「迷惑」とは何なのだろうか。僕は、彼らが死を遂げられてよかったと思う。彼らは布団の中でどれだけシミュレーションしたのだろうか。彼らはどれだけためらい、衝動に駆り立てられる自分を責めたのだろうか。いま、僕が文章を考えている最中にも、誰かは希死念慮の置き場所を悩んでいる。勇気が出せなかった僕は、また明日も仕事に向かう。それはそれで悪くはないし、それはそれでしんどいけれど。

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家々

 先日、林史也さんの『煙たい話』という漫画を購入した。この作品のあらすじをかなり大雑把に紹介するならば、「男性二人が同じ部屋で暮らす話」なのだけど、なぜだろう、僕は文章という形でこの漫画について語りたいと思っている。

 まず、先ほど「男性二人」と言ったが、彼らの関係性に似合う表現はなかなか見つからない。「友人」「恋人」「家族」、どれを当てはめてもしっくりこない。彼らは同じ高校の同級生なのだけど、卒業してから数年後、とあるきっかけで再会し、ともに暮らすようになる。主要な登場人物の一人である「武田」は、同居人である「有田」との関係を他者に説明する際に「友達」という言葉を一度用いているが、もやもやとした戸惑いを覚えている。「俺にとって有田は有田であって、それ以上正確に表す言葉なんてないし、必要だと思ったこともないのに、人に説明するときには言葉が要るんだ…変なの」(p.57)。

 おそらくこの辺りが、僕が『煙たい話』を面白いなあと感じている部分なのだと思う。彼らは、名付けられていない関係性を築いている。端から見ていると、それは夜間飛行のように不安の多い旅ではないかと思ってしまう。名前は便利だ。「友人」にも「恋人」にも、なんとなくこういうものなのだろうなというイメージがある。「家族」もそうだ。誰かが作って広めた「らしさ」に従ってしまえば、自然と安心感も生まれてくる。大雑把に分けられ、名前がつけられた関係性に、僕はときどき甘えてしまう。

 しかし、『煙たい話』の二人はそれとは異なるような気がする。まず、彼らには「一緒に暮らしてみたい」という思いが先にあり、同居を始めたあとで、「この関係性に相応しい言葉って何なのだろう」と考えている(それにしても、男性二人が同じ部屋に暮らすだけでなぜ名前を設ける必要があるのか、だんだんよくわからなくなってくる)。もし言葉が現れないとしても、彼らの生活の前には、一緒に暮らすことの楽しさが立っている。それが妙に羨ましい。

 ここで僕は、今からかなり昔、人が火を発見した頃のことを想像してみる。彼らはあたたかい火を囲み、調理された食料を分け合い、ともに眠る。そのコミュニティを構成していたのは、別に「家族」でも「友人」でもなかった。この炎を共有したいと感じた人同士で相互行為があったはずだ。炎はいつから「家」になったのだろう。夕方、帰宅途中に家々の明かりをぼんやり見つめ、そこにある暮らしを思う。『煙たい話』の二人はどのような営みを描くのだろうか。彼らの炎が生み出す煙はどんな色をして、風に運ばれてどこまで行くのか、見届けたい。

煙たい話 - 林史也 | COMIC熱帯|もう一度、読みたくなる

煙たい話 1 林史也 | コミック | 光文社

入相

 家まで帰る時間が一日の中で一番好きかもしれない。自転車をこぎながら、固まっていた熱がほどけていくのを感じる。肩のあたりから風になっていくように思える。別にもう愛想笑いは必要ないし、社交辞令も求められない。同僚と鉢合わせするのを避けて、遠回りしながら帰る。夜の公園を通ってみる。広い公園なので、犬を散歩させている人もベンチに寝転ぶ老人も、線香花火をする高校生もいる。そういう営みに視線を送るのが楽しい。

 学生時代、学校からの帰り道も好きだった。夕日が川面を染めるのがきれいだと思った。橋を渡り、ゆっくりと下降する。そのときの空気の膨らみを思い出す。別に大したことは考えていなかったはずだけど、自転車をこきながら頭の中で想像を組み立てた。その頃は歌詞を考えるのが趣味だったので、メロディと言葉を探していた。

 話は逸れてしまうけれど、仕事をしていて不思議に思うことがある。僕は昔から吃音をもっていて、窓口で緊張してしまうとよく言葉が引っかかり、うまく出てこなくなる。発音がつまずくと身体の内側が熱くなり、相手の反応が気になる(笑われたらどうしようかと思う)。ただ、誰かの代わりで窓口に入ったときには、不思議と吃音が出ない。自分がもともと任されていなかった仕事をするとき、いつも以上に心が軽いので、緊張感も多少やわらぐのだろう。言葉を発するときの滑らかさが違うことに気づく。

 そういえば、家に帰るまでの間、僕は何者でもない。家の構成員でもなければ、非正規職員でもない。誰かの友人でも、恋人でもない。いろんな関係から切り離されて、ひとりになる。その気楽さが心地いいのかもしれない。家や職場、学校などで人と関わるとき、他者のために言葉を使うことがある。他者のための質問、相槌、返答、感想。別に僕の言葉である必要はなく、その環境のコードに適した言葉でありさえすればいい。でも、そのようにして他者のために言葉を選び取っているばかりいると、疲弊し、うんざりしてしまう。帰り道、僕は誰のためでもなく言葉を摘みとり、味わう。

 あとはもう、今日という日を折りたたみ、眠らせるだけだ。重たい体を布団の中に潜らせる。またすぐに朝が来るだろう。さまざまな役割を思い出し、東へ向かう私になる。

目尻

 齢をとるというのは、どういうことなのだろう。別段、長生きしたいわけではないけれど、予め考えておいて損はないような気がする。アリたちも、冬の季節に備えて夏の日も働いているわけだし。

 人によってさまざまだと思うけれど、年齢を重ねることを否定的に見ている人は多いように感じる。「おじさん」や「おばさん」といった表現を自虐的に使う人や、実年齢よりも若く見られることを目的とした広告をみるたびに、これから僕の人生は下降線を描くことになるのだろうか、と不安になる。それは見方を変えれば、若さへの戸惑いでもある。若いというのは、そんなにいいことなのだろうか。いまの僕にはわからない。

 ただ、僕もときどきこわくなるのは、「おじさん」になって自ずから権力をもってしまわないか、ということだ。視線を向けたり咳払いをしたり、あるいはただ近くにいるだけで、相手に何かしらの緊張感を与えてしまうのではないか。いやだなあ。自分の振る舞いや言葉遣いのすみずみに、力が宿るのならば、僕はずっと弱くありたいと思う。いや、ずいぶん曖昧なことを言ってしまった。弱くあるためには、学ばなければならない。自分が無意識に踏みつけているものを知るために、他者の声に耳をすまさなければならない。そういうことで誰かを萎縮させずに済むなら、易しいことだ。

 ここで話は変わってしまうけれど、仕事をしていて、面白いと感じることがある。窓口に来たお客さんで、お年を召した方々がしばしば、「もうその頃には死んどるわ〜」とおっしゃるのだ。「その頃」というのはだいたい十年後のことなのだけど、ここまでまっすぐに自分の死をネタにされると、こちらは微笑みながら否定するしかない。でも、ふとそれが羨ましく思えるときがあって、自分もいつか死を笑いにして、相手を困らせたい。そのネタを披露できるまで、死はじっと懐で温めておこうと思う。

 この頃、帰り道の信号待ちにぼんやり考えるのが、目尻のあたりに皺がほしいということだ。皺というのは、折り紙をしたあとの折り目のようなもので、一人ひとりの表情をうつしている(たぶん)。だから、目尻に皺がある人をみると、「この人はよく笑う人なのかなあ」と勝手に想像して羨ましいと思う。ときどき、他者と関わることが億劫に感じてしまうけれど、大切な人とのお喋りやふれあいをおざなりにはしたくない。ユーモアをもって、相手を思いやりたい。そうやって笑いを重ねていき、目尻に皺を刻みたい。

 ほとんど一年ほど、友達にどう連絡をとればよいものかと考えあぐねいている。最後に話してから今までの間にさまざまなことが起こったように思うが、季節の速さに記憶が間に合わないので、うまく思い出せない。

 彼らとはインターネットを通して出会ったので、あちらが近況をつぶやいてくれればそれでなんとなく察することはできる。あるいは、なんらかの投稿に反応を示すことで、彼らとのゆるやかな交流が継続される(かなり回りくどい方法だけど)。

 ただ、彼らの投稿を目にするたびに、前はもっと頻繁にやり取りしていたのにな、と思ってしまう。難しい話だ。僕も友人も学生だった頃には、話すための時間を用意することは易しかったし、同じモラトリアムを共有していたので話もしやすかった。他者と話しているのに自分自身と対話しているような楽しさがあった。今はどうだろう。僕も友だちも、だんだん変わっていった。もし会って話した時に、一つも楽しくなかったらどうしよう。あちらが僕のことを嫌ったら泣いてしまう。友だちが僕に自己啓発本をすすめてきたとしたら。そういう嫌な予感が頭に充満して、ただ投稿を眺めるだけの人になってしまう。

 学生の頃の自分は、ずうっとさみしかった。さみしいから文章を書き、ツイッターに棲みつき、何度も電話をかけた。顔も知らない友達と言葉を交わすことで、生き延びられるような気がした。僕は比喩を使うのが大好きなのでここでもそれを持ち出すが、友達とのやり取りは、広い海を泳いでいくためのパドルだった。

 もしかしたら今は、別のパドルで水を切っているかもしれない。家族や恋人、一緒に仕事をしている人。前よりもさみしさを覚えなくなったのは、実家で暮らしている安心感のおかげなのか、仕事で疲れてまともに頭が働いていないせいなのか、僕にはわからない。しかしながら、新しいパドルで海を漕いでいるときにふと、懐かしい感触を想うことがある。昔の会話を漁る。あれほど不器用に人付き合いをしていた自分を受け止めてくれた、彼らの優しさを反芻する。

 ただ、声が聞きたいと言えばそれで済むことなのだが、どうにも伝える勇気がない。言い出せないことは、言わなければならないことなのだけど。僕はこの文章を静かに置いていく。誰にも見つからないとしても、一向に構わない。

ただ羽を休め

 やっと休日が来た。特に用もなく町に出て、書店で新刊の本を手に取ってみたり、気になるブランドのお店を横切ったりして帰る。家でパンを口にしてだらだらしていると眠たくなって、枕から顔を上げればもう夕方になっている。そう言う風にして、あっという間に休みがおわってしまう。

 平日の朝、職場に向かうまでは身体が重たく感じられる。学生の頃は、自分が働いている姿なんて想像できなかった。シャツに袖を通し、扉を開けて風を浴びる。朝の彩りを受けて、会社員や学生とともに町の歯車になる。チャイムが鳴り、働きはじめてみると、身体が仕事に順応して動きだす。

 話は変わるけど、僕の好きな人がエッセイの中で「没頭することの重要性」を説いていた。頭にかかる深い霧を切り払うには、それを忘れるほど没頭できる何かが必要なのだと。僕は、冷水で顔を洗ったような気持ちを覚えた。それを意識しているわけではないけれど、仕事をしていると自然とそのことを思い出す。身体を動かしている間は、心に薄闇が入り込む余裕はなく、帰ってきても疲労ですぐ眠ってしまう。健やかに日々を過ごせているように思えて、嬉しかった。

 しかしながら、無理をしていたせいだろうか、先日熱が出て仕事を休んだ。身体はだるく、喉は熱い。もしかして流行病かもしれないと思い、病院で検査を受けたが陰性の反応が出た(安心した)。布団に寝ながら、ときどき読みかけの本を捲り、知らない音楽を漁った。ぼんやりと天井を見つめ、思考に耽った。不思議と職場のことは気にならなかった。自分の身体を信じきっていたところはあったけれど、なぜあれほど張り切っていたのか、よくわからなかった。

 休日、眠れない夜は死にたいと思う。没頭することに明け暮れて、結局、僕自身は何も変わっていない。本の中にお気に入りの一節を見つけたり、ニュースに目を通して怒りをきれいに整理したりする、たしかな余裕が僕には必要で、そのためには休息が大切だ。何度も言われていることだし、僕も前に文章に書いたことなのに、仕事することの快楽にかまけて、忘れてしまっていた。だから、ここまでだらだら書いておいて、言いたいことは一つしかない。休みは必要だ。

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